私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 5月、新緑の頃になりました。
 今月は4月にとりあげました、太宰府天満宮の「まぼろしの銅(かね)の大鳥居」が残した“足跡”ともいえるものを紹介しましょう。
 
「まぼろしの銅の大鳥居」が残した足跡
 
一 まぼろしの大鳥居が残していた遺跡「二本の柱の台石」
 3ヶ月ほど前、銅の大鳥居に魅せられて太宰府を訪れた。案内所の女性職員さんに銅の鳥居のことを尋ねると、太宰府百科辞典で調べ、文化研究所から、早速、資料を取り寄せてくれた。
 その中で「とびうめ」に掲載された、八尋千世さんの「境内散歩、天満宮の石造物」という一文に接した。そこには、昭和18年に政府に供出し、すでに消滅している大鳥居の台石2基を訪ね、2基目を見つけられた苦心談と喜びが綴られていた。
 その後、学芸員の清水蓉子さんから八尋さんを紹介して頂き、いろいろ興味あるお話をうかがうことができた。
(1)国旗掲揚台
 2基のうちの1基は、太宰府天満宮案内所と延寿王院前の国旗掲揚台の台石として、今なお役に立っている。
国旗掲揚台
(私の右肩にみえる円形の台石)
 この国旗掲揚台の石柱には「梅大路」と「明治九年八月吉晨」とあるが、2本の柱をつなぐ貫(かんぬき)には「建国記念日二月十一日」との銘がある。従って、この掲揚台は明治時代に建立され、戦後、補強されたときに、大鳥居の台石を用いたのだろうか。
 大鳥居の台石は江戸時代天明(1781)の世から今日まで230年、生き続けていると思うと静かな安堵感をおぼえる。
(2)もうひとつの台石とえびすさん
 八尋さんが太宰府市内の石仏を調査されたとき、太宰府境内の国の天然記念物「ヒロハチシャ」のそばに「えびす」さんが祭られていたとのこと。そして、その石碑が横倒しになっていて、境内に近い三条区の子どもたちの格好の遊び場になっていた。八尋さんの先輩である宮本文子さんたちは、倒れた石碑の裏をズベズベ石と称して、スベリ台として遊んでおられたという。子どもたちはこっそりと、三条の街の方を見て、誰も見ていないことを見澄ますと、パッと走っていって、そのズベズベ石で遊んでいた。その模様を、今なお懐かしげに語っておられたそうだ。
 「あのな、着物のうしろの裾ばな、胸のところに持ってきて、すべりよったバイ。見つからんごとせなならんケン、そのスリルがな、なんとも言えんとよ」と。
 その宮本文子さん、現在104歳。今なお、ご健在とのこと。
2006年のスナップ写真
八尋千世さん(左)・・・55歳の定年後、太宰府の歴史を勉強され、学識深い。私より5年先輩ですが、元気!
宮本文子さん(中央)・・・えびすさんのズベズベ石で遊ばれた。
宮本の御令息(右)・・・還暦のお祝いの日
 その「えびす」さんは、昭和27年に雑餉隈(ざっしょのくま)の商店街に貸したと、八尋さんは天満宮文化研究所の井上正彦氏(故)から教えていただいていた。22年前、八尋さんは自ら雑餉隈の商店街、鎮守の森などを歩いたが見つからない。その後、八尋さんが雑餉隈の知人を尋ね、知人宅の近くを散策していると、立派な「蛭児尊(ひるこのみこと)」の石碑が見つかった。太宰府では見たこともない、立派なもの、“やっぱり博多だなあ”と感心して帰られる。
 このことを井上正彦氏にお話すると、
 「それかもしれない。えびすさんの台石は、大鳥居の台石かも」
 そこで、その知人に連絡して確認をされたところ、蛭児尊と鳥居の台石を発見。
 「これで大鳥居の台石2基が揃った、との感激は何ものにもかえがたい」と八尋さんは今なおそのときの喜びを語っておられる。
 
 この“えびすさん”は、西鉄急行電車から徒歩15分くらい、博多区麦野4丁目にあって、地元の方々が毎月15日にお祭りし、特に11月15日には秋の大祭が催されているとのこと。
 
 因みに、現在の恵比須さんにはふたつの流れがある。そのひとつは、古事記、日本書記のイザナギ、イザナミの間に生まれたヒルコにかかわる次のようなストーリーである。
 
 女神であるイザナミが、イザナギに向かって「いい男だ」と先に求愛したため、蛭(ひる)のように手足が萎えたヒルコノミコトが生まれる。ヒルコは3年過ぎても脚が立たず歩くことができない。このため両親はヒルコを葦舟に乗せて海に流してしまった。そして、ヒルコは西宮の浦に流れ着き、これを漁師が“まれびと”=「えびす」として育てた。成長したヒルコは夷(えびす)大明神と呼ばれ、西宮神社の祭神「ヒルコの尊」として、信仰されることになる。
 
 もうひとつは、大國主神の息子である事代主神(コトシロヌシ)を信仰する流れである。大国主神が国を譲るに際し、事代主神は自らそれを受諾して姿を消した、と言われており、出雲の美保神社などでは事代主神がエビスとして信仰されている。
 その他、ヒコホホデリノミコト(彦火火出見尊、山幸彦)を信仰したり、恵比須さんは、幅広い神称をかかえ民俗信仰として広がっている。
 
 雑餉隈の“えびす”さんは「稚児えびす神」と称し、その由来を次のように説明されている。
 蛭児尊は得恵比須神の前の御名で、イザナギ、イザナミ神の第一の御子で・・・幼児の守護神として、また家内安全、商売繁昌の福の神で・・・、千数百年の昔から太宰府神社の境内に祭祀されていたが、昭和二十七年この境内に遷し・・・
大祭日 十一月十五日
稚児えびす奉賛会
 
稚児尊(稚児えびす)正面 稚児尊(稚児えびす)背面
・円形の石が大鳥居の台石
・八尋さんが、先輩宮本文子さんが遊んだという石に感慨深げに合掌。
 八尋さんに案内してもらい、お参りしたが、境内は綺麗に管理され、地元の皆さんのお気持ちが静かに伝わり、思わず手を合わせる。
二 青銅の大鳥居と鳥居天満宮
 銅の大鳥居に関心を抱きながら、こんな大きな鳥居、しかも銅の鳥居を、常安九右衛門氏はどこで鋳造したのだろうかとの疑問が残り、最初は当時の経済の中心だった大阪かなと思っていた。
 しかし、常安氏の銅華表(鳥居)鋳立日記には、
 「・・・何分、他所にて請負の鋳造不足にて某(それがし、自分で)引受け鋳立(するより)外はない」と記録され、唐津の木綿町で鋳造したと誌されている。
 
 また、太宰府市発行の「わがまち散策~太宰府への招待」第1巻に、藤田数彦氏は「青銅の大鳥居と鳥居天満宮」と題して、唐津の鳥居天満宮のことについて次のように述べられている。
 
 大鳥居は唐津木綿町で鋳造され、太宰府天満宮に奉納された。そこで木綿町の人々は鳥居が鋳造された由緒あるこの土地に天満宮を勧請(神霊を迎えて祭ること)し、木綿町の守り神としてお祭りした。これが華表(鳥居)天満宮である。
 当郡神社明細書にも、「安永7年(1778年)、筑前国御笠郡太宰府へ寄進、銅鳥居鋳立候場所ナル訳ヲ以ッテ同年町内安全ノタメ勧請」
 と書かれている。
 
 安永7年は西暦1778年、大鳥居は天明元年、西暦1781年に奉納されているから大鳥居の鋳造中に勧請祭祀、以来、江戸、明治を経て、大正年間に「法令によって」唐津神社中段の東側に奉遷され、春3月、秋9月に例会が執り行われている。
唐津神社境内にある鳥居天満宮
 私ども、永い間、唐津に住んでいるが、唐津神社の中には、いろいろの史実が隠されているものである。
 大正を終えて、約90年の歳月しか経過していないが、木綿町で鳥居が鋳造され、さらに、天満宮が勧請されたこと等、今日の人々の脳裡には、ほとんど残されていない。どの辺りで銅が鋳造されていたのか、天満宮はどこにあったのか、現在の木綿町の正田カメラ店、植月さんの辺りだろうと推測するほかはないとは、いささか寂しい。何かはっきりした根拠はないものだろうか。
 「鳥居のこと、常安九右衛門の太宰府天満宮への銅の大鳥居、そして戦争のため、その鳥居は幻と化したものの、鳥居の台石は、国旗掲揚台と恵比須さんの台石として、今なお存在していること、さらに唐津にも鳥居天満宮として、なお祭祀が続けられていること」に、何か救われた気持ちと歴史にロマンを感じつつ、このコラムを終わる。
参考文献
「太宰府の銅の鳥居」 井上正彦(元太宰府天満宮禰宜) 著
   太宰府を語る会第6号
「青銅の大鳥居と鳥居天満宮」 藤田数彦 著
   わがまち散策第1巻 太宰府市発行
「とびうめ 境内漫歩 天満宮の石造物4」 八尋千世 著
「日本神仏信仰の謎を読み解く 七福神信仰の大いなる秘密」
   久慈力 著 批評社