私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。

 ありがとうございます。
 6、7、8月と、15年戦争と私の15歳までの体験を交えながら、たどってきました。

 昭和20年8月15日、終戦。
 すべての日本国民、一人ひとり、何らかの精神的なショックを受けていた。戦争からは解放されたものの、茫然自失。将来への不安を抱えながら、“戦後”が始まる。
 
戦後のこと ~日本国憲法の成立過程をたどる~
 
一 戦後、直後
 当時、私は中学(旧制)4年、大村の学徒動員から復学、2学期が始まる。15歳の少年にとって、敗戦を実感したのは、新聞等によるマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇との2人の写真(昭和20年9月27日)、天皇陛下の人間宣言(昭和21年1月1日)等々からである。
二 日本国新憲法の制定へ、幣原内閣誕生
 日本のポツダム宣言受諾により、アメリカの占領政策がはじまる。
 終戦直後の最も混乱した時期、アメリカおよび連合諸国から東久邇宮内閣は日本の非軍事化と民主化への急速な断行を迫られ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、10月9日幣原喜重郎内閣が成立した。
 幣原喜重郎は、昭和6年の満州事変前に、日本の協調外交を代表し、国際的にも信頼されていた。GHQ推薦で総理大臣就任以降、卓越した英語力と交渉力でGHQとわたりあい、日本社会の改革が進んでいく。
 昭和20年10月就任後、間もなく幣原が肺炎に罹り、マッカーサーはお見舞に当時としては貴重なペニシリンを送り、快癒。昭和21年1月には復帰し、マッカーサー・幣原会議が行われた。(ペニシリン会議と言われている。)
三 マッカーサーの三原則
 その後、マッカーサーの日本の占領政策の骨子として、次の3原則がGHQの内部で検討されている。(昭和21年2月3日)
 
 3原則とは
1.天皇制について
 「天皇は国の最上位(at the head of state)」を与えられるが、その職務と権限は憲法に従って行使され、ここに示される国民の基本的意思に応える。(GHQの草案ではat the head がsymbolとなる。)
2.戦争の放棄
 日本は「紛争解決の手段としての戦争」のみならず「自国の安全保障の手段としての戦争」も放棄する。
 この項目は、両者の会談では、幣原首相が提言し、マッカーサーが感激したという説がある。
3.封建制度
 貴族の権利は皇族を除き、現存するもの1代以上には及ばない。華族の地位は国民的、市民的な政治的権力を伴わない。予算の型はイギリスの制度にならう。
四 日本政府案は拒否と、GHQ草案提示
 昭和21年2月13日、この日は、「衝撃の連続であった占領期間の中でも日本政府が最も根深いショック日」だったと云われている。
 当日は、日本政府は吉田茂外相、松本烝治国務大臣(憲法改正担当)が、GHQ民政局長、ホイットニー准将に会い、すでに提出していた日本国の新憲法改正案の応答を聞く予定であった。
 ところが冒頭から、GHQホイットニー准将は、日本国の憲法(案)は「自由と民主主義国の文書として受け入れることはできない」と拒否したあと、GHQが自ら作成した英文の草案を提示した。
 それには、天皇は日本国のSymbolであること、戦争の放棄を柱とするものであった。
 当時の政府にとっては全く予想だにしていなかった案として狼狽する。
 2月19日の閣議では、当然大荒れ、特に天皇を象徴、戦争の放棄は一部の閣僚の反対もあっただろうが、結論としてマッカーサーと幣原首相とのトップ会談を了承、首相にお任せすることとなる。閣議の3日後のマッカーサー・幣原会談は戦後の憲法体制を決定した重要な会談といえよう。
 昭和21年2月とは、昭和20年8月15日の戦後から6か月しか経過していない。この間に、日本という国の進路が決められている。
 このような短期間に、日本の憲法改革への進路が決まるのは、当時の世界各国の動きが影響している。
五 当時の世界情勢と極東委員会
 昭和20年12月27日、極東委員会が設置された。それまでは、日本の占領政策は、マッカーサーが絶対的権力を持っていたが、これに対してソビエトが激しく反発してきた。早くも“冷戦の兆し”があったのである。この日、12月27日、アメリカ、ソビエト、イギリスの外相会議で、極東委員会が設けられる。メンバーはこの3国の他に中国、オーストラリア、オランダ、ニュージーランド、フランス、フィリピン、カナダ、インド、以上11か国である。
 この結果、日本が明治憲法を根本的に改革するときは、極東委員会の意見の一致がなければならない。委員会は昭和21年2月26日とされたのである。
 このことによって、マッカーサーは憲法改正にあたり制約を受けることになり、日本の憲法改革と戦争の放棄は、世界の注目の的になる。特に、ロシア、オーストラリアは強硬で、天皇制廃止、再軍備反対を主張していたのである。
六 新憲法設立へ
 このため、やや強引とも思えるスケジュールでGHQの「天皇の象徴、戦争の放棄の条文化」を含んだ、原案を作り、極東委員会の先手を打ち、口を封じた・・・とも言われている。
 このような国際的な背景と経過をたどり、3月6日、政府憲法改正法要綱を発表、6月20日、憲法改正案を議会に提出、11月3日、憲法公布。主権在民を基本とした、日本国憲法は世界に認められたものとして誕生する。
七 「憲法改正よりも今日の飯」の中で
 昭和21年2~3月、当時の私は、旧制中学4年、終戦のショックからも落ち着く。やはり、上級学校に進まねばと、希望学校を旧制福岡高等学校と決め、受験勉強を始めた。幸いに、兄(傳兵衞)の受験用の参考書、小野圭の英語で学び、物理、化学等、試験問題も戦後初めての入試なので、暗中模索だが、受験勉強に熱中していた時期である。
 若い少年のこととはいえ、敗戦後の憲法改正と、天皇陛下の地位はどうなるのかという関心はあったものの、当時は憲法改正より、その日その日の食糧とインフレが一般国民の最大関心事だった。そのような中で、敗戦後数か月のうちに新憲法が完成するとは、いわゆる“離れ業”とでも云えようか。
七 日本国憲法の功罪は
 今、敗戦直後の日本の社会をみると、幣原首相は政府の憲法改正案(GHQの草案を中心とした)を、国民に判断してもらうべく、4月10日、新選挙法による総選挙を行った。その結果は自由党、進歩党の保守系が多数を占め、日本国民は、占領政策を与えられた運命の如く、何の抵抗もなく受け入れている。
 結果論かもしれないが、新憲法はよくも短期間のうちに、しかも全世界の注目を浴びながら、円滑に成立、以来、幣原内閣から吉田内閣へ引き継がれ、今日に至る。
 発布された当時は新憲法にとまどいながらも、天皇制、戦争の放棄とその基盤はしっかり守られ、日本の発展の基本法として正しい選択であったといえるだろう。
 憲法改正の声があがっている中、日本国憲法の成立過程をたどってみました。
参考文献
日本国憲法誕生 知られざる舞台裏」 塩田純 著 NHK出版
「日本の近代6 戦争・占領の講和」 五百旗頭真 著 中央公論新社
「日本の歴史26 よみがえる日本」 蝋山政道 著 中央公論社
読売新聞 2014年8月23日号 P27,昭和時代 第4部