私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ

 3月になりました。
 いわゆる就活も終わり、いよいよ“働くぞ”と心を新たにする若い人も多いでしょう。
 
労働観に想う
     
一、「働かざるもの食うべからず」
 小学校5~6年の頃だった。
 担任の先生の、この短い「言葉」が耳朶に残っている。当時、ぼんやり聞き流していたこの言葉は、今もなお働くことの意味を問いかけてくる。
 折にふれ、労働観、職業倫理等々を繙いているが、結論めいたものさえ発見できない。ただ、キリスト教の世界には、時代に沿いながらも、基本的なものがある。
二、楽園追放
 その基本的なものとは、キリスト教とユダヤ教の経典である旧約聖書の「創世記」の中にある御存知の「楽園追放」をめぐるところである。
 楽園とは、神によって作られた「自然の園」で、そこでアダムとイヴは、百合の花、小鳥と共に、無邪気に暮らせば、天衣無縫、いつまでも暮せたのだが、そこに分別と欲を持った蛇が、アダムとイヴを誘惑し、「禁断の木の実」を食べさせる。このことで、2人は楽園から追放される。
 その中では、ご承知の性の羞恥と、「お前たちは額に汗して働かねばならない」、今からは神の庇護がないものとして、自分の力で生きてゆけということになる。
   以降は、労働は“罰”として、原罪をきびしくうけとめることが、この宗教の柱となっている。  
 ローマの圧政に堪え、非業の死を遂げたパウロが「働かないものは食べてはならない」と唱えた。
   三、罰から天職へ  
 ルーテルの宗教改革によって、はじめて労働をただ罪の償いと捉えるのではなく、「働くものの職業」を神の召命、神から授けられた使命として捉えていく、いわゆる“天職”という考えが生まれた。
 以上、恥ずかしい限りであるが、机上の知識の集約と解釈である。キリスト教における労働観、倫理観がどのような存在であるのか今からのテーマとしても勉強していきたい。
四、日本的労働観
 明治維新後の経済国としての躍進、第二次大戦後の復興、高度成長の“源泉”は日本人の「勤勉さ」にあると云われている。
 さて、その勤勉さの基礎となる意識は何故、どこで生まれたのか。
 日本人は、日本列島という自然に恵まれ、一木一草に至るまで神が宿ると信じ、尊敬もし、畏敬もし自分の生命も自然のまま生きていく、という心構えで、五穀豊穣を祈りながらいろいろの稲作技術を向上させ、自然を助け、自然とともに働いて、組織ができあがってきたのではなかろうか。そして律令国家となり、班田収受等で労務管理が必要となった。外国から儒教佛教が流れ込んできたが、基本的な考え方において、大きな変革はなかった。
 時は流れ、日本人の労働観に倫理的、心情的な骨格ができあがったのは、徳川時代初期になってからである。
五、「農業は佛行なり」
   徳川時代に入り、鈴木正三が登場し、この俗世に働く人の意識を庶民に積極的に説明する。
 鈴木正三は、三河武士で出家して禅僧となる。
 鈴木は大胆にも、「農業は佛行なり」と云い切り、働くことの中に佛教ありと説くことで、農業の辛苦をやわらげていく。 
 
   次いで、徳川時代、いよいよ貨幣経済の社会にあって、石田梅岩の考えが商人の世界に浸透した。利殖を目的としながらも、倹約を第一義とし、処世観も清廉潔白だったと云われている。
 この二人の学者は、当時の儒教、佛教、神道を支えながら説教をしていた。その後に、安藤昌益が出てくる。
 これらの学説をもとに、現実の問題として「近江商人」が生まれていく。近江商人の系統は徳川から明治・大正・昭和へと引き継がれているが、その基本としては、「行商」であることと、浄土真宗の信徒であることである。
 
    これらは職業人の実践訓として、また、自らの家訓として、正直、勤勉、倹約となってそれぞれ積み重なりながら、日本の職業倫理は形成されていった。  
   当初は、二宮尊徳を中心とした農民階級の経済倫理が説かれたが、経済が複雑になって、商人の職業倫理、職人さんの倫理、職人気質、等々、全職業人に普遍的な共通した倫理ではなく、それぞれの職種によって若干の差を有する独自のものとなっている。家業から発展した鉱山、建築業はその経営理念を引き継ぎ、発展させ、新しい会社は新しい経営理念を掲げており、時代に対応している。  
    しかしながら、各企業の掲げる経営理念はあるにしても、就職する青少年には「自分は今後どういう考えのもとに働くのか」、しっかり現実を直視し、自らの職業観を確立して入社していただきたい。