「去華就実」と郷土の先覚者たち
第7回 辰野金吾
(1)耐恒寮の閉鎖と辰野金吾
明治5年(1872年)唐津藩は財政難のため、できたばかりの耐恒寮をたった一年余りで閉鎖することになる。高橋是清は東京に戻り、耐恒寮の生徒のうち、曽禰達蔵、西脇乾三郎、山中小太郎らは高橋と共に上京する。辰野金吾、麻生政包、吉原政道は一年遅れて後を追う。彼らは東京で学問を積み、各々の道で成功をおさめる。こうして俊才たちが相次いで唐津を離れたので地元は人材難となり、「唐津からっぽ」などと揶揄されることともなるが、より大きな舞台で活躍する場を与えられたことは、彼らにとって幸いなことであった。これから耐恒寮の生徒何人かの生涯を追うが、最初は辰野金吾(たつのきんご)である。日本銀行本館や東京駅を作った人として知られる建築家である。
辰野金吾は唐津藩の下級藩士、姫松倉右衛門と妻オマシの次男として安政元年(1854年)唐津の裏坊主町に生れた。足軽よりも身分の低い、最下層の武士の家である。9歳の時、藩の御勘定組頭であった戸田源司衛門の主宰する寺子屋に入り、四書五経の教育を受ける。倉右衛門の弟に辰野宗安という武士がいて、江戸の唐津藩屋敷詰であったが、明治維新にともない唐津に帰ってきた。金吾は宗安の養子となり、辰野姓となる。身体は頑強ではなかったが、藩校志道館、英学寮耐恒寮などで学び、勉学の面で頭角をあらわす。
国立国会図書館
「近代日本人の肖像」より
(2)工学寮時代と英国留学
上京してからは備州邸に居候する。唐津出身の山口文次郎が備州邸内に「耐恒学舎」を開いていたので、そこの教師をしながら英国人モーリス夫妻のボーイをして英語力を磨く。明治6年(1873年)4月、工学寮(東京大学工学部の前身)の第一回入学試験が行われる。耐恒寮の生徒たちはこぞって受験したが、曽根達蔵と麻生政包の二人が合格し、辰野は点数が足らず、4ヶ月後の再試験で拾われる。かくて辰野は工学寮第一期生32人中最下位の成績で入学する。この一件にも見られるように,辰野は抜群の秀才というタイプではなかった。並外れた強い意志を持ち、皆が舌を巻く猛勉強で力をつける努力の人だった。工学寮では英国人ジョサイア・コンドル教授(Josiah Conder)の指導を受け、6年後に造家学科(のちの建築学科)を卒業する時は主席であった。コンドル教授は鹿鳴館、島津邸(今の清泉女学院)、古川邸(今の大谷美術館)などを設計した人である。
卒業の翌年、官費留学生11人の一人として英国に渡る。これは各学科の主席卒業生に与えられる特典であった。フランス船ボルタ号に乗って横浜を発つ。同船者には高峰譲吉、志田林三郎らがいた。志田は佐賀県多久町の出身で、のち帝国大学電気学科教授、電気学会初代会長となる人である。辰野はロンドン大学のロイヤルアカデミーオブアーツに入学し、建築構造学科を卒業する。そのいっぽう、キュービット建築会社とウィリアム・バルジス建築事務所でも学ぶ。留学先に民間建築事務所を含めたのはコンドル教授の発案だが、これが辰野自身のその後の生き方に影響を与える。英国を出て、フランス、イタリア各地を巡って建築物を見学した後、帰国する。
(3)大学から民間へ
帰国後の明治17年(1884年)、コンドルの後継者として推され、工部大学校教授となる。30歳であった。しかし辰野は、建築家としての醍醐味は家を建てることにあると考えていたので、大学教授は自らの求める職業ではなかった。翌年、教授を辞職する。しかし明治19年(1886年)、懇願されて帝国大学工科大学教授に復職。明治21年(1888年)、工学博士となり、工科大学学長も勤める。このかん、建築学会の設立に尽力し、会長を務める。「学会」というのは、多くの場合、大学に籍を置く学者を中心とした組織なのだが、辰野はこれを好まず、施工業者、建築家、大学人を三位一体とした、我が国独自の組織体を構想し、実現した。これが現在の日本建築学会である。
明治35年(1902年)、辰野は47歳になった。帝国大学教授として16年間、我が国の建築学の基礎を固め、多くの後継者を育てた。ひととおりの責務を果したと考えたのか、あるいは真にやりたい仕事を始めるためのタイムリミットと考えたのか、この年、帝国大学工科大学の学長を突然辞職し、野に下った。
大学を去った辰野は、明治36年(1903年)、東京の板橋に「辰野葛西建築事務所」を、次いで明治38年(1905年)、大阪の中之島に「辰野片岡建築事務所」を開く。東西の二大都市に事務所を構え、ひろく一般の注文に応じて建物を設計、施工する。建築家として念願の仕事場を得たことにより、この後の辰野の活躍は目を見張るものがある。今も日本各地に残る赤レンガの建物など、200以上の建造物を手がけた。こうして辰野は、フリーの建築家という、それまで我が国に存在しなかった職業を確立した。
(4)日本銀行本館
辰野の初期の代表作とされるのが、明治29年(1896年)に完成した「日本銀行本館(国の重要文化財)」である。我が国が「殖産興業・富国強兵」の名の下に欧米諸国に追いつこうと、精一杯背伸びをしていたこの時代、堂々たる日本銀行本館を建てることは、国家の威信を内外に示す一大事業であった。辰野は大学教授の職務の傍ら、設計から竣工まで9年の歳月をかけ、威風堂々たる建築物を作って期待に応えた。
今も日本橋本石町に勇姿を見せるその作品は、余りの重厚さゆえに、「相撲取りが仕切りをしているような」とか、「辰野堅固」などと評されることもある。稀代の名作と見るか、必要以上に仰々しいと見るか、見解の分かれるところだろうが、この姿こそ当時の国家の意志だったのだ。日本人による初めての本格的な近代建築であり、明治の時代精神を伝える作品である。
日本銀行本館の建設にあたっては、高橋是清とのあいだにエピソードがある。高橋は明治22-23年(1889-1890年)、アンデス山中の銀山経営に乗りだすが、買い取った銀山がとんだ廃坑で、大損して撤退する。帰国後すっかり反省して謹慎中であったが、それを見かねた当時の日銀総裁・川田小一郎が日銀で働くことを勧める。高橋は「丁稚(でっち)奉公からやり直したい」と辞退する。
それではというので日銀本館建設プロジェクトの事務部門で準社員として働くよう勧められる。こうして高橋はかつて自分の生徒であった辰野の下で働くこととなる。上下関係の逆転を周囲は心配するが、当人たちは、さして気に留めなかったようである。もともと二人は同い歳だから、師弟というよりは対等に近い感覚だったかもしれないし、それに、出世した教え子の下で働くというのは、教師冥利に尽きる面もあっただろう。
高橋は辰野の下で才覚を発揮する。鉄鋼資材の在庫管理を改善して仕入れにおける無駄を省く。輸入材料の為替差益を商社がごまかしていることを見抜いて改善させる。石工の親方衆相手に信賞必罰の競争原理を導入して労働生産性を上げる。このあたり、現代にもそのまま通じる経営手法であり、実務家高橋の面目躍如である。資金難と工事の遅れに苦しんでいた辰野はおおいに助けられる。
建物の材料選びは大きな問題だった。日銀の川田総裁は権威と風格を重んじて、総御影石造りにこだわる。そこで辰野は瀬戸内海の北木島から、日本一硬く重いといわれる花崗岩を取り寄せる。しかし明治24年の岐阜地震被害を見て、辰野は構造力学上の問題に悩む。二階、三階を石造りにすると、上部が重すぎて地震に耐えられないのだ。総石造りだと費用も高すぎる。しかしレンガでは重厚さがないから総裁が納得しない。実直な辰野は上司の意向と現実との板挟みに苦しむ。見かねた高橋が、内部をレンガで作り、表面に石板を貼って、接合部を上手に処理して、見かけは総御影石作りと違わないように仕上げるという提案をして、それで総裁を説得する。真面目一筋の男と才人との、よいチームワークである。
(5)東京駅
晩年の代表作の中で有名なのは、明治41年(1908年)に着工、大正3年(1914年)に完成した東京駅である。当時、東京の鉄道停車場は、西に向かう新橋駅と東に向かう上野駅に分かれていた。これをひとつにまとめた東京の玄関口を作る計画が持ち上がり、仮に「中央停車場」と呼ばれていた。これをどこに作るかが問題だった。実用性を考えれば、江戸時代から引続く商業の中心である日本橋、銀座あたりにするのが妥当なのだが、結局、首都の象徴としての性格が重んじられ、皇居前が選ばれた。そのため、駅舎にも単なる交通運輸の拠点ではない格式が求められ、皇居を含む周辺全体の景観が考慮された。
『明治大正建築写真聚覧』
(国立国会図書館ウェブサイトより)
辰野が設計したのは、皇居和田倉門に正対し、お堀に沿って全長320メートル、三階建ての巨大な建造物だった。駅というより小都市である。巨大ではあるが、日本銀行と比べるとずいぶん肩の力が抜け、都会的な華やかさをたたえた建物である。アムステルダム駅舎を参考にしたと言われるが、そんなに似ている訳ではない。赤レンガの壁に白い石の帯を配することで、重々しさより軽やかさを演出している。この手法は「辰野式」と呼ばれる作風のひとつで、辰野の多くの作品に見られる。
大正3年に完成し、関東大震災にも耐えたが、第二次世界大戦の空襲で三階部がなくなり、両サイドのドームも失われるなど、現在の姿は制作当時とは異なっている。現在、東京都では、制作当時の東京駅を復元する計画が進められている。何時の日か、辰野が設計した姿の東京駅がよみがえることを期待しよう。
(この記事執筆後の2012年10月に、東京駅丸の内駅舎の復原工事が完了しました。)
(6)唐津銀行
日本銀行や東京駅という国家プロジェクトだけでなく、辰野は日本各地に、もっと小さな建物をたくさん作った。ふるさと唐津の地には唐津小学校と唐津銀行を残した。残念ながら唐津小学校は解体され、今は跡地が市庁舎になっているが、明治45年(1912年)に完成した旧唐津銀行(県指定文化財)は健在である。辰野の監修のもと、愛弟子田中実が設計した。赤レンガに白い石でアクセントがつけられ、屋根にはドームと突き上げ窓が配され、辰野式フリークラシック様式と呼ばれる作風をよく伝えている。今見ても非常におしゃれだから、明治の唐津の街にこれが出現した時は、さぞ新鮮な驚きをもって迎えられたことだろう。この建物はのちに佐賀銀行唐津支店となり、平成9年(1997年)まで現役の銀行として使われた。その後佐賀銀行から唐津市に寄贈され、今は市の文化施設として利用されている。外観だけでなく、内部も立派に保存されているから、ぜひ見学されるとよいでしょう。
明治のはじめ、我が国の近代建築の技術は、ほとんどゼロから出発した。辰野金吾は強烈な使命感に支えられて、学界、官界、民間にまたがる事業をリードし、この分野を育て上げた。その努力と奮闘ぶりにはほんとうに頭が下がる。大正8年(1919年)、65歳で亡くなったが、最期まで「次は帝国議会議事堂を造る」と意気込んでいたそうである。明治以降の日本は、「東洋の奇跡」と言われる成長を遂げたが、その影に、各分野で国家の発展のために文字通り生涯を捧げた多くの人々がいた。辰野金吾は間違いなくその一人であり、明治という時代を代表する気骨の人であった。
参考文献:
- 「工学博士辰野金吾伝」白鳥省吾編(1925年、辰野葛西事務所)
- 「辰野金吾略伝」鈴木熈著 「末盧国」第127号(1996)
- 「郷土史に輝く人びと 大木喬任 辰野金吾」田中草太郎・常安弘通著(1971年、佐賀県青少年育成県民会議)
- 「日本の建築『明治大正昭和』3国家のデザイン」藤森照信著、増田彰久写真(1979年、三省堂)
- 「東京駅と辰野金吾」吉川盛一・山野信太郎編(1990年、東日本旅客鉄道株式会社)
- 「赤レンガの東京駅」三浦朱門・稲垣栄三・小池滋著 赤レンガの東京駅を愛する市民の会編(岩波ブックレット No.258)
- 「高橋是清自伝 上・下」高橋是清著、上塚司編 (1976年、中央公論新社)