「去華就実」と郷土の先覚者たち
第16回 高取伊好 (下)
(6)唐津炭田と芳ノ谷炭鉱
ふるさとに帰った高取伊好は、唐津南部地方に広がる炭田に注目する。高島炭鉱時代の知己で、政治力・財力のあった竹内綱(たけうちつな)の協力を仰ぎ、唐津地方への進出をめざす。竹内は土佐藩出身の政治家・事業家で、後藤象二郎の片腕でもあった。
唐津炭田の始まりは、享保年間(1716-1735年)に唐津市の南部、現在の北波多村「ドウメキ」において、農夫が偶然に燃える石を発見したことにあるとされる。このあたりは戦国時代の豪族、波多氏が支配した地域であり、波多氏の築いた岸岳城のある岸岳の北側斜面に石炭層の露頭があった。ここで採れる石炭は松浦川の水運を使って唐津港に運搬できるので、既に徳川幕府の時代に九州雄藩の注目するところとなり、薩摩藩、福岡藩などが藩営炭鉱を保有していた。
(写真提供:宿毛市立宿毛歴史館)
御用山と呼ばれる幕府の直営炭鉱もあった。明治維新の後は海軍がこれらの主要部を取得していた。高取伊好が高島炭鉱を辞して佐賀県に戻ってきた頃、これらの海軍直営鉱山が民間に払い下げられる動きがあった。伊好と竹内はそれに注目したのである。
『佐賀県写真帖』
(国立国会図書館ウェブサイトより)
竹内と伊好は唐津炭田の採掘権獲得競争において後発の部類だったので、先に鉱業権を取得していた人々から買い取るしかなかった。まず、芳ノ谷(よしのたに)、寺ノ谷両鉱区の採掘権を長崎の富豪、永見寛次、永見伝三郎から各々買い取った。こうして明治18年(1885年)竹内綱を社長、高取伊好を技師長とする「芳ノ谷炭鉱会社」を発足させた。ところで、宮島傳兵衞はドウメキの採掘権を海軍から取得していたが、この頃それを売却している。「相知町史」によればそれを買い取ったのが高取伊好だとされている。
当時の唐津炭田の事業形態は、「鉱業家たちが国から採掘権を得て、国有地において鉱山を経営する」というものだった。明治25年(1892年)、伊好は唐津鉱業組合の総代に推され、海軍省と鉱山局を相手に交渉を重ね、海軍の所轄を解除することに成功する。こうして唐津炭田は完全に民営化された。
(7)一進一退の事業
高取伊好は唐津への進出の傍ら、自らのふるさと多久(たく)から厳木(きゅうらぎ)地区にかけて広がる柚ノ木原(ゆずのきはら)炭鉱の再建を手がけた。この炭鉱はもともと多久家のものであったが、苦境に陥った多久家が明治17年(1884年)、それを横尾家に売却していた。伊好の次兄で横尾家の養嗣子となっていた横尾庸夫が経営にあたっていた。旧式の炭鉱で経営は四苦八苦であった。兄から再建を託された伊好はここにボイラー、巻き揚げ機械、楊水機などの近代装備を導入し、生産力を上げて、古い炭鉱の面目を一新した。従来、多久川の水運に頼って有明海側に搬送していたのを、松浦川を経て唐津港に至る搬送に改め、販売量も徐々に上がった。しかし資金の調達に苦しむ状況が続くなか、明治30年(1897年)、横尾庸夫が死去した。炭鉱経営は困難を極め、明治32年(1899年)、伊好はついに、隣接する蜂ノ巣炭鉱と共に柚ノ木原炭鉱を筑豊の貝島財閥に売却した。
芳ノ谷炭鉱から南に数キロメートルの所に、相知(おうち)炭鉱がある。地表近くに炭層があるので、当時すでに地元の人々によって小規模の採掘が行われていた。いっぽう伊好は、この深層に良質の炭層があることを洞察していた。
そこで地元の炭鉱主たちから深層の採掘権を得て、試掘を繰り返した。そして明治28年(1895年)、地下70メートルの場所に厚さ約1メートルの良炭層を発見した。伊好は大阪・神戸の資本家たちを口説いて、明治32年(1899年)、資本金12万円の「相知炭鉱株式会社」を設立した。伊好自身が専務取締役、喜多伊兵衛(大阪)、柏木庄兵衛(神戸)らが取締役となった。
『三菱唐津鉱業所写真帖』より
もともと炭鉱を開業するには、試掘を繰り返し、やっと鉱脈に当たれば、次いで大掛かりな生産整備が必要だから、巨額の初期資金がないとできない。財閥の支えのない鉱業家は常に借金地獄に苦しむことになる。明治中期の不安定な経済状況のなかで、伊好の経営する佐賀県内の炭鉱群は悪戦苦闘していたが、明治33-34年(1900-1901年)の恐慌は、最も大きな打撃となった。負債に苦しむ伊好に対して、三菱合資会社唐津支店は圧力をかけ続けていたが、明治33年(1900年)、伊好はついに屈した。有望と確信していた相知炭鉱を「涙を呑んで」三菱財閥に売却したのである。伊好の提示額57万円に対して最終売価37万円という安値が、この時の三菱と高取の力関係を示している。三菱相知炭鉱はその後、従業員5千人を抱える大鉱山へと成長した。
(8)杵島炭鉱に賭ける
負債に堪えられず、柚ノ木原、蜂ノ巣、相知炭鉱を相次いで手放した伊好は屈辱の時を過ごすことになるが、これにひるむことなく、売却で得た資金に更に新たな借金を重ねて、佐賀県南部の炭田開発に乗り出す。今の佐賀県杵島郡(きしまぐん)北方町(きたがたまち)、大町町(おおまちまち)の一帯に広がる炭田の開発である。明治34年(1901年)に赤坂口、福母(ふくも)という古い小坑を横尾家から買い取って試掘を繰り返し、非常に豊富な炭量の存在する兆候をつかんだ。明治36年(1903年)には大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれたが、そこに赤坂口、福母両鉱の石炭を出品したところ第2等賞状と銅牌を受け、おおいに励まされる。
この地は有明海に近く、六角川の水運によって住ノ江港に至り、海につながるから、輸送面でも唐津に劣らない。かくて明治38年(1905年)、伊好は大勝負に出る。彼の関わる炭鉱の中でも特に成績の良かった唐津の芳ノ谷炭坑を敢えて手放す。芳ノ谷炭鉱に関するすべての権利を竹内綱に譲り、その譲渡金を杵島地方の炭鉱開発に注ぎ込む。そして更なる金策に奔走し、明治42年(1909年)には一帯410万坪に及ぶ鉱区の買収を完了した。こうして、杵島地方のほぼすべての炭鉱が高取伊好の所有物となった。
(写真提供:多久市郷土資料館)
高島炭鉱に始まる伊好の鉱山技術者・経営者としての経験と知識が生かされ、杵島炭鉱は飛躍的な発展を遂げた。発足翌年の明治43年(1910年)、12万9千トンだった生産量は翌44年(1911年)には22万9千トン、次いで大正元年(1912年)には27万3千トンに達した。大正6年(1917年)にはついに60万トンを超えた。
(多久市郷土資料館蔵)
従業員は5千人を超えた。炭質は九州炭の白眉とされ、上海、東京等では「キシマコール(Kishima Coal)」が汽船用石炭の標準品とされた。悪戦苦闘の連続であった伊好の石炭事業はここに花開き、「肥前の炭鉱王」と呼ばれる勝利者となった。日露戦争後の好景気という幸運にも恵まれたが、そこに至る経過を見れば、文字通り不撓不屈の精神と粘りによって克ち得た成功と言えるだろう。
伊好は、搬出港となった住ノ江港の港湾設備の整備にも力を注ぎ、毎日2千5百トンの搬出を可能にした。有明海の海底は粘土質でしゅんせつが比較的容易だったので水深も徐々に深く掘り下げられ、大潮を利用すれば3千トンの汽船が安全に入港できるようになった。
明治38年(1905年)、国の特別輸出港に指定されたのに続いて、大正8年(1919年)には特別輸出入港に指定された。こうして、杵島炭鉱は佐賀県南部の社会経済を大きく変えていった。
(9)引退
杵島炭鉱で巨大な富を生み出した伊好は大正8年(1919年)、高取鉱業株式会社と高取合資会社の経営を長男九郎と娘婿の盛に譲って引退した。70歳であった。唐津の自宅と武雄・雲仙の別荘で漢詩の詩作に励み、書や能を楽しんだ。昭和2年(1927年)、78歳で死去した。墓は唐津市神田(こうだ)に置かれた。死後、銅像や彰徳碑が多久、北方、唐津、嬉野、有田に建てられた。「西渓」の雅号とともに伊好が残した漢詩や書幅は、多久市郷土資料館などで見られる。
(多久市郷土資料館)
(10)高取伊好と宮島傳兵衞
宮島傳兵衞は高取伊好より2歳年上である。傳兵衞と伊好は唐津炭田の初期に採掘権をめぐってやり取りがあったが、傳兵衞はその後、主たる力を醤油醸造業に転じ、炭鉱経営から遠ざかったので、事業上の関係が深かったわけではない。しかし伊好の孫・綾さんによれば、時々高取邸の客となって交流していたそうである(高取綾「祖父との思い出」)。
井出以誠の「佐賀県石炭史」には、二人のエピソードが紹介されている。大正の始め、杵島炭鉱で事業を拡張しすぎた伊好が、借金取りを遁れて唐津町裏の料亭に潜んでいると、そこに身を隠していた傳兵衞にバッタリ出会い、「お前もか」と互いに苦笑したという。かなり怪しい話だが、二人の気分を伝えるものではある。
時代は下って、傳兵衞の孫・宮島庚子郎(こうしろう)は東京帝国大学採鉱冶金学科に進んで鉱山技師となり、第二次世界大戦後の困難な時期、杵島炭鉱の杵島鉱業所長として高取九郎の石炭事業を支えた。日本のエネルギー政策が石炭から石油へと大転換するなか、杵島炭鉱はその使命を終え、昭和44年(1969年)に閉山した。
(11)社会貢献
高取伊好は石炭事業の成功者であったが、その社会貢献の大きさも注目される。明治34年(1901年)、辰野金吾の設計によって唐津小学校校舎が建設されたが、伊好はその建築費を寄付した。まだ借金に苦しんでいた時代である。この時から昭和2年(1927年)までの27年間、伊好は郷土の社会教育事業に対して、倦まずたゆまず寄付を続けた。佐賀県内15の小学校に27回の寄付をするなど、その総額は226万8943円に上っている。「ふるさとに貢献するために」炭鉱事業家となった伊好らしい行為である。
(伊好が寄贈した図書館)
生まれ故郷の多久にも、橋を架け、水道を引くなど、かずかずの貢献をした。なかでも、大正11年(1922年)、村営図書館、公会堂と公園を寄付した。敷地と建設費の総額7万7800円の全額である。当時の多久村の年間予算は1万円ほどであった。レンガ造りの図書館は今も郷土資料館として健在である。1万8千平方メートルの広大な敷地は、伊好の雅号をとって「西渓公園」と命名され、市民に親しまれている。
明治・大正時代の炭鉱については、国の発展を支えた花形産業という表面だけでなく、劣悪な労働条件、囚人を使った非人道的な労働と様々な悲劇など、その裏面も指摘されている。高取伊好もそうした負の側面に関係していないはずはない。しかしいっぽう、伊好が、炭鉱従業員の福利厚生や事故犠牲者遺族への援助に心を砕いたことも事実である。
(12)国指定重要文化財・高取伊好邸
明治30年代、杵島炭鉱の経営が軌道に乗り出した頃、伊好は唐津城三の丸城壁の北、西の浜に本邸を建設した。明治時代の政財界人にしばしば見られることだが、私邸であると共に、賓客を迎える迎賓館として、また会議、応接、式典、茶会、能楽会など、半ば公的な行事を行う場所としての機能も備えている。
この邸宅が歴史家、建築家などに特に注目されるのは、
1 | 明治30-40年代という時代の特徴を極めてよく伝える様式、つまり明治初期の偏った西洋趣味を脱却し、洋風を巧みに取り入れた和風建築であること。 |
2 | 建物の輪郭から細部の装飾、家具、道具に至るまで、高取伊好という人物の趣味が貫かれて、家全体がひとつの作品となっていること、特に京都四条派の画家水野香圃に描かせた襖絵や板絵が有名である。 |
3 | そこで生活した高取家の人々の息吹がよく残されていること、などであろう。公的な空間の豪華さに比べて、伊好自身を含む高取家の人々の生活空間がごく質素であることも印象的である。 |
高取家の方々はこの邸宅の維持にたいへんな苦労をされ、いったんは解体を決意されたと聞くが、平成5年(1993年)、唐津の有志に各地の研究者などが集って「高取邸を考える会」が結成され、熱心な保存運動が展開された。平成8年(1996年)には佐賀県文化財に指定され、翌9年(1997年)には日本建築学会九州支部のシンポジウムが高取邸をテーマに開催された。この年、邸宅は高取家から唐津市に寄贈され、翌10年(1998年)、国の重要文化財に指定された。
こうして高取邸は消滅を免れた。現在、長期の保存に堪えるべく、大掛かりな修復工事が行われている。ここまで漕ぎ着けられた関係者のご努力に頭が下がる思いである。
修復中のため、現在は見学できないが、その威容の一部は高取和民さんのホームページで見ることができる。また、NHK教育テレビの人間大学や、昨年発行された「歴史遺産 日本の洋館 第2巻 明治篇(2)」(2002年、講談社)にも紹介されている。
本稿を準備するにあたり、唐津市文化課の田島龍太さんからは数々の資料を提供いただいた。多久市郷土資料館館長の尾形善郎さんには、資料館の取材をさせていただいた。旅館洋々閣の女将で「高取邸を考える会」事務局長でもある大河内はるみさんには、冒頭の高取伊好の写真を提供していただいた。杵島炭鉱については、大町町教育委員会生涯学習係の方に写真取材などをさせていただいた。
ここに記載した高取伊好の生涯は、そのおもな典拠を、九州大学石炭資料研究センターの発行する石炭研究資料叢書第5巻に収録された「高取伊好翁伝(稿本)」に置いている。この評伝は故森永卓次郎さんによって伝えられ、その解説を佐賀女子短期大学の細川章さんが書いておられる。
参考文献:
- 「高取伊好翁伝(稿本)」 石炭研究資料叢書 第5巻 73-171頁(1984年、九州大学石炭資料研究センター)
- 細川章著 「高取伊好翁伝(稿本)解説」 石炭研究資料叢書 第5巻 70-72頁(1984年、九州大学石炭資料研究センター)
- 多久市郷土研究会編 「丹邱の里 第11号、特集 高取伊好」(1997年、多久市郷土資料館)
- 高取綾著 「祖父高取伊好の生涯」 (1997年11月、佐賀新聞記事)
- 朝日新聞西部本社編 「石炭史話 すみとひとのたたかい」(1970年、謙光社)
- 井手以誠著 「佐賀県石炭史」(1972年、金華堂)
- 坪内安衛著 「石炭産業の史的展開」(1999年、文献出版)
- 藤森照信著 「NHK人間大学 建築探偵・近代日本の洋館をさぐる」(1998年、NHK出版)
- 藤森照信著、増田彰久写真「歴史遺産 日本の洋館 第2巻 明治篇(2)」 (2002年、講談社)
- 高取和民さんのホームページ(高取邸の保存と紹介について)
- 旅館洋々閣のホームページ(高取邸を考える会)