「去華就実」と郷土の先覚者たち
第17回 竹内明太郎 (上)
竹内明太郎(たけのうちめいたろう)は、明治時代、わが国の鉱工業創生期に、基幹産業の育成と理工学教育に大きな足跡を残した人である。唐津炭田の芳ノ谷炭鉱の経営に始まり、竹内鉱業株式会社を創設して遊泉寺銅山(石川県)、茨城無煙炭鉱(茨城県)、橋立金山(新潟県)、大夕張炭鉱(北海道)など各地の鉱山を経営した。
また、産業用機械の開発製造をリードする会社として、唐津鉄工所と小松鉄工所(後の小松製作所、現在の(株)コマツ)を創業した。初の国産自動車ダット号の開発と製作にも貢献した。竹内明太郎は早くから技術教育の重要性を説き、高知工業学校(高知県)を設立した。最新の工業技術を学ばせるために自社内外の若者を積極的に欧米に派遣し、彼らを中核として教授陣を構成し、わが国最初の私立工業大学を唐津の地に創設しようとした。
(写真提供:宿毛市立宿毛歴史館)
この計画は挫折したが、準備された教授陣と資金をそっくり早稲田大学に提供し、現在の早稲田大学理工学部を発足させた。第二次世界大戦後の内閣総理大臣・吉田茂は竹内明太郎の弟である。
(1)父・竹内綱
竹内明太郎の生涯を記すにあたって、まず父親である竹内綱(たけのうちこう)の生涯から始めよう。竹内綱は今の高知県宿毛(すくも)市に生まれた。竹内家は、土佐藩主山内氏に仕える伊賀家の目付け役であった。綱は幕末の困窮期にあって藩財政の建て直しに力を発揮した。土佐藩は明治維新の推進者のひとつだったから、明治元年(1868年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)においては、綱も旧幕府軍を追って東北地方を転戦して戦果を上げた。国が落ち着いてからは大阪府と大蔵省にしばらく勤務したが、ほどなく辞職した。もともと血気盛ん過ぎる人だったので、為政者側に立つことは難しかったようだ。
(写真提供:宿毛市立宿毛歴史館)
大蔵省を辞して、同郷の後藤象二郎らと共に自由民権運動を推進する。綱は主として運動の財政面を担当した。明治7年(1874年)に後藤が高島炭鉱を取得したのは、綱の主張によるものと言われている。経営に苦慮した後藤は福沢諭吉を仲介人に立てて高島炭鉱を三菱の岩崎弥太郎に譲るのだが、当時外遊中だった綱はそれを知っておおいに憤慨したという。炭鉱経営に情熱を燃やした綱は、高島炭鉱の坑長であった高取伊好(たかとりこれよし)と組んで、唐津地方における炭鉱経営に乗り出す。自ら社長となり、高取を技師長として、芳ノ谷炭鉱株式会社を設立する。
このころ、大久保利通ら明治政府中枢部の進める近代化策に反感を抱いたいわゆる「不平士族」のあいだに、不穏な動きがあった。明治7年(1874年)、江藤新平が佐賀で兵を起こし(佐賀の乱)、明治10年(1877年)には西郷隆盛が鹿児島でさらに大規模な蜂起をし(西南戦争)、これらが鎮圧されたことで、明治政府の基盤はより確固たるものになるのだが、この時、竹内綱は板垣退助らと共に反乱軍側にいた。高知における蜂起計画が発覚して捕えられ、新潟の監獄で禁固1年の刑に服する。出獄後は板垣と共に国会開設などを求めて、自由党の運動を展開する。明治15年(1882年)に板垣が暴漢に襲われて倒れ、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な文句を吐いたとき、板垣を抱きかかえて助けたのが竹内綱である。明治23年(1890年)の第一回帝国議会選挙においては、高知県から立候補して当選する。
明治27年(1894年)、綱は時の外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)から委嘱を受けて、朝鮮半島の視察に出る。この時の綱の帰朝報告が、日清戦争開始の重要な判断材料になったと言われている。いっぽう綱自身はこの視察によって朝鮮半島の将来性に目を開かれ、ソウルと釜山を結ぶ京釜鉄道、ソウルと仁川を結ぶ京仁鉄道の建設に情熱を傾ける。総理大臣伊藤博文に建設許可を出させ、渋沢、三井、三菱、安田、大倉など財閥の協力を取り付けて、本格的な運動を推進する。これは綱晩年の大事業となり、京釜鉄道の全線が開通したのは大正3年(1914年)のことであった。竹内綱はこのあと大正11年(1922年)、82歳で没した。
竹内綱は政治と実業の両面で波乱万丈の生涯を送ったが、盟友後藤象二郎に似て夢想家の傾向があり、政治や、スケールの大きな事業が好きだった。そういう性癖は坂本竜馬や板垣退助にも通じるから、幕末土佐人の気質と言えるのかもしれない。土佐弁で「いごっそう」と呼ばれる彼らは皆、緻密で永続的な仕事が苦手だった。そういう父を持っていたので、明太郎は父の興した会社の経営実務や後進の教育を引き受けることとなった。このように、竹内明太郎の実業家としての出発点は、父綱の事業の執行役であった。
(2)少年時代・西欧の民主主義思想
竹内明太郎は万延元年(1860年)、今の高知県宿毛市に生まれた。宿毛は唐津より更に小さな町だが、当時、頼山陽の高弟と言われた儒学者・酒井三治がいて、「日新館」という私塾を開いていた。明太郎は慶応3年(1867年)から2年間、ここで和漢の学問を学んだ。
明治3年(1870年)、父が大阪府典事として大阪に赴任したので、明太郎も大阪に移り、「岩崎英学塾」に学んだ。これは岩崎弥太郎が自邸内に米国人講師を招いて開いていた私塾で、弥太郎の弟・弥之助、豊川良平、林包明らがいた。明太郎はここで初めて英学を学ぶ。
明治6年(1873年)、14歳の明太郎は父の大蔵省勤務に伴われて上京し、中村正直(中村敬宇)の主宰する「東京同文社」に入塾する。ちょうどこの年、明治期を代表する民主主義思想家である福沢諭吉、中村正直、森有礼、西周(にしあまね)らが「明六社」を結成して「明六雑誌」を創刊するなど、西洋の新しい思想潮流が一種のブームとして知識人や若者のあいだに広まっていた。
中村は英国留学から帰って間もなく、サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)の 名作 ”Self Help” を、「西国立志編」という題名で翻訳紹介したが、この本はベストセラーとなった。どんな身分の人間にとっても、勤勉に働き、自分の運命を自分で切り開くこと、つまり自己実現こそが大切であり、それを行った人こそが立派な人物なのだということが説かれている。当時の最先進国であった英国の資本主義の発展を支えた精神であり、それはキリスト教プロテスタンティズム(新教主義)の倫理でもあった。最近、「自助論」と題した竹内均さんの新しい翻訳が出版されているから、目にされた方もあるだろう。中村正直自身も勤勉・誠実に生きた教育者であり、明太郎はその人格から強い影響を受けた。後年、明太郎は各地に工業学校を作ったが、その授業科目に「聖書」を取り入れたりしたことからも、中村から受けた影響の深さがしのばれる。
(国立国会図書館ウェブサイトより)
明治7年(1874年)、明治を代表するもう一人の民主主義思想家である中江兆民が、東京の麹町中六番町の自宅内に「仏学塾」という私塾を開いた。中江は明治4年(1871年)にフランスに留学し、フランス革命や米国独立戦争の思想的バックボーンとなった社会契約説を学んで帰った。中江はルソーの「民約論」を仏学塾で講義し、若者たちを熱狂させた。
明太郎はこの講義に通い、中江とは個人的にも親しくなった。明太郎の弟・虎治と中江の娘・千美が結婚したことからも、二人のあいだに私的な交流があったことが伺われる。中江の人間平等主義は徹底したもので、礼儀作法などにおいても、旧来の風習に捉われることが全くなかった。客が来ても浴衣のまま応対し、時には寝転がったままで、客にも枕を勧めて話し込むなどの天衣無縫ぶりだった。明太郎は終生、権威や威圧を嫌い、率直な人間関係を好んだが、そうした人格の形成に中江の影響があったことは推察できる。
国立国会図書館
「近代日本人の肖像」より
明太郎の自由民権運動との関わり方は、表面的には父ほど深くはない。「絵入り自由新聞」という新聞の刊行に関わった記録が残されている程度である。しかし、熱気に満ちていたこの頃の東京で、中村や中江から受けた思想的影響は大きかっただろう。それに、少年期を通じて、第一級の教師たちから、和漢米英仏の教育を受けたことは特筆されるべきことである。
(3)芳ノ谷炭鉱
明治18年(1885年)、竹内綱は高取伊好と共に芳ノ谷炭鉱の経営権を取得し、その経営実務を明太郎に任せることにした。翌明治19年(1886年)、26歳の竹内明太郎が唐津に赴任し、高取らと協力して、最新鋭鉱山の建設に着手する。
英国人技師を招いて英国製の削岩機やジャックハンマーを購入したほか、明治23年(1890年)には延長3.2キロメートルに及ぶ専用軽便鉄道を敷設して、芳ノ谷炭鉱と唐津港を結んだ。明治27年(1894年)には炭鉱と唐津港間に専用電話を引いた。これが佐賀県における最初の電話線架設であった。
(写真提供:唐津市)
芳ノ谷炭鉱は明治25年(1892年)には6万トン弱の生産高であったが、明治37年(1904年)には18万トン、42年(1909年)には22万トンの生産を記録し、国内有数の炭鉱に成長した。
この頃の従業員数は3千人を超え、現在の佐賀県北波多村(きたはたむら)一帯に、大きな炭鉱町が形成された。このかん明治38年(1905年)、長年の協力者であった高取伊好が杵島炭鉱の開発に専念するために芳ノ谷から撤退したので、芳ノ谷炭鉱の経営は専ら竹内父子の手にかかることとなった。
(写真提供:唐津市)
(4)竹内鉱業株式会社
竹内綱は土佐藩士を中心とした政財界の豊富な人脈を生かして各地の鉱山を入手した。父子は明治27年(1894年)、竹内鉱業株式会社を創設して全国規模の鉱山経営に乗り出した。本社を東京に置き、芳ノ谷炭鉱(佐賀県)、遊泉寺銅山(石川県)、茨城無煙炭鉱(茨城県)、橋立金山(新潟県)、大夕張炭鉱(北海道)など各地の鉱山を傘下に治める、大規模な鉱業会社の誕生であった。ところが父はこの頃から、朝鮮半島における鉄道敷設運動に熱中したので、これだけの大会社の経営を、実質的には若き明太郎が担うこととなった。明太郎は重責に耐え、経営者としての才能を発揮した。
(5)パリ万国博と欧州視察
鉱山経営者としての経験をある程度積んだ明太郎は、明治33年(1900年)、欧州へと旅立った。パリで開かれていた万国博覧会を視察するのが主目的だったが、同時に1年かけて欧州各国の工業技術を視察した。
パリ万国博で明太郎は、欧州各国から展示された工業製品の水準の高さに驚く。なかでも、従来の炭素鋼の3倍の速度で金属を切削する高速度鋼や、欧州各国が持つ鋳物の高い製造技術に舌を巻いた。これら金属工業の技術がその国の製造業全体の水準を支え、ひいては国富の源泉となっていることを痛感する。
考えてみれば、竹内父子が日本国内で推進している鉱山業は、鉱脈を掘り尽くせば終わってしまう。これに比して機械工業は、その製品がまた次の製品を生み、技術が順次蓄積され、富を生み続ける。欧州先進国の富の源泉はここにある。欧州視察は、明太郎に目指すべき目標をはっきりと意識させ、自身の事業を鉱業から機械工業へ、更には技術教育へと方向転換させるきっかけとなった。
(6)唐津鉄工所の誕生
帰国した明太郎は、金属機械工業の技術センターとしての鉄工所を設立すべく計画を練った。最初は製品を作って売り、利益を上げることを主目的とせず、欧米先進諸国の技術に追いつき追い越すために、じっくり独自技術を研究し、鍛錬する場とする。だから、東京など大都会ではなく、落ち着いた静かな土地に作りたい。欧米製品に負けない品質が実現するまでは販売をせず、自社内で試験的に使って改良を重ねたいから、竹内鉱業の付属施設として運営しよう。そして最終的には製品を輸出して、世界の舞台で勝負したい。
明太郎はこうした計画を当時の東京高等工業学校(今の東京工業大学)校長である手島精一に伝え、新設鉄工所の技術部門を任せられる人材を求めた。新設鉄工所は、わが国の金属加工技術を欧米に伍するものにするための技術センターだから、それを指導できる人でなくてはならない。数多の卒業生の中から手島が推薦したのは、竹尾年助(たけおとしすけ)であった。
(写真提供:唐津プレシジョン)
竹尾は東京高等工業学校を卒業後、米国ニュージャージー州ホーボーケンにあるスティーヴンス工科大学(Stevens Institute of Technology)に学んで明治31年(1898年)に卒業、引き続き同大学機械学科のデントン(J. E. Denton)教授のもとに残り、ディーゼルエンジンの研究によって修士の学位を得ていた。この新進気鋭の技術者は、その後も米国の機械会社に勤めており、帰国の予定はないはずだった。ところが家の事情で一時帰国しているあいだに滞在が長引いてしまい、この出会いに遭遇した。
明治39年(1906年)9月、手島精一の紹介により竹尾年助は唐津を訪れた。明太郎と竹尾は意気投合し、新設鉄工所を唐津妙見に建設すること、そして竹尾がその所長に就任することが決まった。その後、竹尾はいったん米国に戻り、新設鉄工所の詳細な計画を練ったうえで再度帰国し、明治42年(1909年)、唐津鉄工所が正式にスタートした。名称は「芳ノ谷炭鉱株式会社唐津鉄工所」とされ、竹尾年助が所長、竹内明太郎が本社の社長としてこれを統括した。
(写真提供:唐津市)
唐津鉄工所は、当初は竹内鉱業の各鉱山で使われる機械の設計製作を行った。技術陣には東京高等工業学校の卒業生が多数集まり、地元出身の若い職工たちを教育するために、工場内に三年課程の「見習学校」が設けられた。ほどなく社外からの注文も受けるようになり、唐津鉄工所は、わが国を代表する精密機械工場のひとつとして、名声を確立して行った。
(次号に続く)