「去華就実」と郷土の先覚者たち

第33回 宮島傳兵衞 (三)


傳兵衞はいよいよ醤油醸造という新事業に乗り出す。


(11)醤油醸造を開始

大麻丸の遭難以来、常に傳兵衞の脳裏にあったのは、より堅実な事業へのシフトであった。遠隔地海運や石炭採掘という「ハイリスク・ハイリターン」の事業を続けながら、運輸業の中心を松浦川の川下しへと移し、石炭も採掘よりは問屋業に専念する方向へと舵を取った。しかし何といっても最大の出来事は醤油醸造を始めたことであった。「自伝」には、「拾五年中 醤油造業設立す 醤油は日用品にして永遠宮島家の商売将来見込み付て此業起す」とある。傳兵衞が熟慮の末、「永遠の商売」を目指してこの業にあたったことが分かる。

傳兵衞の「自伝」中、醤油醸造の開始を述べた部分。

全く新しい事業なので設備投資金が要る。川下し事業も始めたばかりで、当時の傳兵衞には資金的な余裕がなかった。そこで「頼母子講(たのもしこう)」を起した。これは原始的な資金融通組合である。会員が定額資金を定期的に持ち寄り、毎回、会員の一人に対して資金提供をする。この方法で600円を調達し、休業中の醸造家から蔵道具類を購入した。明治15年(1882年)3月、今の唐津市水主町と大石町にまたがる土地(宮島商店本店)に醸造蔵を建て、180石(32.4キロリットル)の諸味を仕込んだ。早春に仕込むのは、水が冷たくて雑菌の繁殖が抑えられるからである。夏の高温で発酵が進み、秋には熟成されて醤油となる。新しい事業の門出を祝って、翌16年(1883年)には醤油屋としての開店式を行った。幸いに傳兵衛の醤油はよく売れた。明治18年(1885年)には倉庫を新築し、石高も年々増えていった。

ところが幸運は永く続かないもので、明治19年(1886年)2月16日、麹室(こうじむろ)より出火し、麹室と倉庫が全焼してしまった。かつて大麻丸遭難の時、傳兵衞は大ショックのあまり、三日三晩寝込んでしまったが、今度は違った。火事のその日より復旧作業を指揮し、僅か23日間の工事で麹室と倉庫を新築してしまった。この早業は傳兵衞にとって生涯最大の自慢話であった。新事業を始めて4年、38歳の傳兵衞の気力充実ぶりが伺われる。

宮島醤油創業の地。
唐津市水主町2408番地と大石町2412番地にまたがる一帯。明治15年(1882年)にここで醤油醸造が開始されたが、明治42年(1909年)以降、工場は順次現在の本社工場の地に移され、昭和9年(1934年)に本社機能も移された。その後は松浦塩販売会社などとして使われた。

(12)新工場の建設

佐賀県唐津地方の醤油造りにはもともと、他の地方と比較して格別優れた伝統があったわけではない。家内醸造から発した小規模生産者から教わりながらの技術研鑚であったと思われる。明治36年(1903年)、京都で開かれた内国勧業博覧会において、醤油の品評キャンペーンが行われることになった。全国から2,800点の醤油が出展された。傳兵衞も出展したところ「三等」を受賞した。三等以上の賞を受けたのは200点(全体の7%)、九州からは11点であったことから、この頃には傳兵衞の醤油は品質的にかなり進歩していたことが分かる。

生産の拡大に対応するために、傳兵衞は新堀(今の船宮町)に新工場を建てた。「新蔵(しんくら)」と呼ばれたこの工場は、明治42年(1909年)に稼動を始め、以後大正年間を通じて順次充実された。水運のプロである傳兵衞の工場らしく、工場内に運河があり、製造された醤油は工場敷地内で船積みされ、すぐ裏の松浦川河口から玄界灘へと搬送された。いっぽう北九州の戸畑にも新工場を建てた。洞海湾に面したこの工場もまた、優れた水運拠点であった。物流の専門家が興した醤油業というのが、宮島醤油の際立った特質であった。

工場の見取り図「株式会社宮島商店 醤油醸造場」。
昭和初期に描かれたものと思われる。

大正期における工場増築の様子。
記録によれば大正10年、第16号倉庫の棟上とある。大正年間には、こうした増築が繰り返し行われた。
戸畑工場。
戸畑工場は大正3年(1914年)に設立された。この写真は大正6年(1917年)のものである。戸畑工場では醤油醸造が昭和30年代まで行われ、それ以後、生産は本社工場に集約された。以後、戸畑支店は販売と物流のみを扱うことになった。

(13)販売網の構築

販売戦略として、傳兵衞は自ら築いてきた炭鉱と水運の商圏を生かした。明治36年(1903年)に宮島商店醤油部を拡張し、同41年(1908年)に伊万里支店、同43年(1910年)に長崎支店、大正3年(1914年)には戸畑支店と直方(のうがた)支店を開設した。長崎支店の開設にあたっては、かつて慶応年間に佐賀藩が開いた藩校致遠館の土地と建物を買い取り、それをそのまま支店として使った。ここは副島種臣、大隈重信らが宣教師フルベッキから英学を教わった場所であり、副島と大隈は途中から教師も兼ねた。大隈らの教育者としての出発点とされる由緒ある場所で、傳兵衞は大胆にも醤油の瓶詰めや販売を行ったのである。今はその場所に早稲田大学による記念碑が建っている。

明治41年(1908年)に開設された伊万里支店。
この写真は大正9年(1920年)のものである。

宮島商店長崎支店。
明治43年(1910年)、かつて佐賀藩校英学塾致遠館が置かれていた土地と建物に開設された。この写真は昭和年間のもので、旧致遠館の建物がそのまま残っている。この建物は昭和41年(1966年)に解体された。

長崎支店の建物。
致遠館時代には中庭の建屋で授業が行われていたらしい。宮島商店では、ここで醤油の瓶詰め作業を行った。

長崎支店の古い木看板。
「醤油」と大書して、「株式会社宮島商店醸造 本店佐賀県唐津町 支店長崎県五島町」とある。宮島商店が株式会社組織になったのは大正7年だから、それ以降の製作である。

(14)統計で見る宮島醤油

明治学院大学経済学部教授の神山恒雄さんは、明治・大正期における傳兵衛の醤油業の足跡を研究されている。神山教授が「主税局統計年報」、「佐賀県統計書」などをもとに分析されたところ、佐賀県における醤油の移出入バランスは大正3年(1914年)に逆転している。つまり本格的な醤油醸造業が育っていなかった佐賀県においては、明治期を通じて醤油は他県から移入されており、移出される量は少なかった。いっぽう大正期に入ると、佐賀県は圧倒的な移出県となる。宮島醤油の新工場が年々拡張され、また北部九州各地に支店が開設されたのがこの時期に当たる。明治38年(1905年)の統計によれば、佐賀県に千石(180キロリットル)以上の生産高の工場はなかったが、大正9年(1920年)の統計では、九州で唯一、5千石(900キロリットル)以上の生産高を誇る工場が佐賀県にあるとされている。宮島醤油は九州最大の醸造家になったのである。生産高はその後も増え続け、大正末期には1万石(1,800キロリットル)を超え、昭和14年(1939年)には1万8千石(3,240キロリットル)に達した。

和暦年 西暦年 生産 移入 移出 県内需要 自給率
明治9年 1886 5,539
明治28年 1895 4,062 3,544 355 7,251 56.0%
明治36年 1903 8,013 2,037 1,910 8,140 98.4%
大正2年 1913 14,914 1,152 6,564 9,502 157.0%
大正9年 1920 21,521 2,015 6,463 17,073 126.1%
明治、大正期における佐賀県の醤油の統計(単位は石=180リットル)。
神山恒雄教授が各種統計をもとにまとめられたもの。

佐賀県における醤油の需給関係グラフ
上記表をもとに作ったもの。1903年(明治36年)頃に佐賀県は移入県から移出県に変わり、それ以後は県内需要、県外への移出とも、大きな伸びを示している。

(次号に続く)