「去華就実」と郷土の先覚者たち
第34回 宮島傳兵衞 (四)
石炭と海運から発した事業は、醤油醸造という新しい分野へと展開したが、いっぽうで炭鉱との深い結びつきを生かして、傳兵衞は産業火薬事業を始めた。
(15)明治後期における輸送環境の変化
明治22年(1889年)、唐津港は国の特別輸出港に指定され、明治29年(1896年)には木製の松浦橋が完成した。石炭の積み出し拠点として、唐津東港(現在の東唐津から唐津城址公園の一帯)は活況を呈し、公園下に置かれた宮島商店石炭部も栄えた。ところが明治後期にはこの環境に大きな変化が訪れた。鉄道の発達である。明治32年(1899年)、厳木(きゅうらぎ)町から西唐津港までの鉄道が開通し、45年(1912年)には山本・岸岳間の支線も整備された。唐津炭田から唐津港への石炭輸送の手段は川舟から鉄道へと一気に変わった。36年(1903年)には久保田において九州鉄道と繋がったことにより、佐賀、長崎、福岡へも鉄道輸送が可能になった。明治学院大学の神山恒雄教授(産業経済史)によれば、唐津港への石炭輸送総量に占める川舟輸送の比率は明治35年(1902年)の70%から、44年(1911年)には10%へと落ち込んだ。港の様子も変わった。川舟から大型船への積み替えを行う唐津東港の利用は激減し、いっぽう、鉄道輸送の拠点である唐津西港(妙見)に大量の石炭が集積された。三菱、三井、貝島ら財閥各社は唐津西港に相次いで支店を構えた。東港はすっかり淋しくなった。
(写真提供:唐津市)
川舟輸送に重心を置いていた傳兵衞の事業はこうして再構築を余儀なくされた。この時期、傳兵衞は帆船3隻を保有していたので、問屋業と、そして再び遠隔地海運に熱心に取り組んだ。地元の環境が変化したといっても、海軍省、浅野商店など大口への販売は堅調だった。新たに神戸のギールス商会、長崎のアルベス商会などと関係を持ち、大連、上海などへの輸出も行った。明治38年(1905年)には石炭販売のため上海に出張した。
対して発行した「石炭問屋」証書
(16)炭鉱向け火薬の販売
輸送を中心とした石炭商売が時代の変化に直面してやや困難になったなかで、傳兵衞が打った次の一手は火薬事業であった。明治29年(1896年)、炭鉱向けに火薬類の販売を開始した。ダイナマイトはスウェーデンのアルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel)によって1867年に発明されたものだが、我が国へは明治12年(1879年)英国人モリソン(James Pender Mollison)によって初めて持ち込まれた。ダイナマイトを国内鉱山における岩盤の発破に使う試みは、明治14年(1881年)、三池鉱山での麻生政包の仕事に始まるとされている。
ダイナマイトの国内販売については、当初、モリソン商会が総代理店であったが、鉱山におけるダイナマイトの有効性が明らかになるにつれ、国内有力者が相次いで販売権の取得に乗り出した。渋谷商店が明治15年(1882年)に販売権を得たのに続いて、明治30年代までに三田商店(東北)、粟屋商店(大阪)、宮島商店(九州)、牛尾商店(九州)が相次いで参入した。
危険物なので、火薬の輸送と火薬庫の管理には特別の設備と細心の注意が必要である。初期においては危険ゆえに自動車輸送が禁じられ、舟と馬車が使われた。しかし物流の専門家である傳兵衞にとって、これは得意分野であった。傳兵衞によって始められた火薬事業は、息子徳太郎の時代になって更に成長した。唐津炭田だけでなく、佐賀、長崎、福岡、山口各県の炭鉱が全盛期を迎えるに伴って、宮島の火薬事業も栄えた。この事業は第二次世界大戦後、宮島商事株式会社に継承され、こんにちに到っている。
しかし昭和30-40年代に実施されたエネルギー政策の大転換によって、我が国の石炭産業は大幅に縮小された。そして最後まで残った国内二鉱山のうち、長崎県の池島炭鉱が平成13年(2001年)11月に、北海道の太平洋炭鉱がその2ヵ月後に相次いで閉山したことによって、我が国の石炭産業は終結した。我が国最後の炭鉱となった池島炭鉱は、長崎県琴海町の池島から東シナ海方向に掘り進められた海底炭鉱である。ここに最後まで火薬を納品したのが宮島商事であったことは、今では歴史上の事柄となった。
(17)唐津火工品製作所の設立
産業用爆薬として、ダイナマイトが従来の黒色火薬等に比べて特に優れているのは、起爆感度が鈍いことである。打撃では爆発しないし、火をつけても静かに燃えるだけである。ダイナマイトを起爆するには、「雷管」と呼ばれる起爆装置(小型爆薬)が必要である。明治時代にダイナマイトが産業用に実用化され始めた頃、雷管は、英国のグラスゴー・ノーベル社とドイツのハンブルク・ノーベル社製のものが使われていた。明治40年、清水貞介、清水荘次郎らは神戸の奥平野において、これらの輸入雷管を加工して電気雷管を試作した。導火線の代わりに電線を使い、電気信号によって起爆するのである。しかし清水らの最初の事業は販売不振のため失敗に終わった。そこで、本格的な商業生産をめざす電気雷管工場は産炭地に作るべきであるとの考えが生まれた。大正2年(1913年)、初の国産電気雷管製作会社として、「清水合名会社」が福岡県糟屋郡多々良村に設立された。このとき原料となる工業雷管をドイツ、イギリスから輸入したのが、宮島商店(唐津)と牛尾商店(福岡)と記録されている。このあたりのいきさつは、株式会社ニシカの会長である清水荘一さんが書いておられる。
その後、日本各地にいくつかの電気雷管工場が作られたが、大正5年(1916年)、唐津市東町に設立された「唐津火工品製作所」もそのひとつである。この会社の設立の経緯を少し述べておこう。清水荘次郎は最初、和歌山県で電気雷管の製造を始め、九州の炭鉱向けの販売を宮島商店に委託した。傳兵衞は唐津炭を大阪に運んださいの帰り船で電気雷管を九州に移送した。九州の産炭地での火薬使用量が増え、遠距離輸送も不便なので、九州に工場を作ることになり、清水が技術を、宮島傳兵衞・徳太郎が資本である土地と工場を提供する形で「唐津火工品製作所」が設立された。工場は醤油工場に隣接しており、醤油と電気雷管が同じ敷地内で製造されるという、世にも稀な工場が唐津に出現することになった。
唐津火工品は創業間もない頃5棟の工場を持ち、従業員48名、年間生産量は21万個ほどで、販売先は貝島炭鉱(高島、崎戸、美唄、夕張)、三井三池鉱山、満州鉄道等であった。唐津火工品は後に西日本火工品と社名を変え、現在の株式会社ニシカに至っている。唐津工場は平成年間まで電気雷管を製造した。
「証明書 一、宮島式電気雷管。右は当社豊国、多久両炭鉱用として使用中のところ、その発火、効力とも確実なるものと認む。右証明候也。大正7年0月9日 明治鉱業株式合資会社」
(18)明治後期における宮島商店の事業構成
明治後期、傳兵衞の事業は多角化した。明治40年(1907年)の「佐賀県商工名鑑」に宮島商店の広告が掲載されている。当時の事業形態を示す史料として貴重である。また、現在も商標として使われている「キッコーミヤ(亀甲宮、六角形の中に宮)」がここで使われている。
宮島商店は三部制を敷いており
石炭部: | 石炭輸出商、東京海上保険株式会社代理店、東洋汽船株式会社代理店、東京浅野商店石炭部代理店 |
醤油部: | 醤油味噌製造 |
雑貨部: | 鉄砲、火薬、ダイナマイト類一切、度量衡、札幌ビール、スコップ、浅野セメント、佐賀セメント、除虫油、其外雑品 |
と記されている。
この史料に表現されているように、明治後期から昭和初期にかけて宮島商店の事業を支えたのは、石炭、醤油、火薬という三本柱であった。
雑貨部は他にもいろんな商品を扱っているが、その中に「度量衡」というものがある。幕府時代には物の重さ、長さ、容積などを測る器具の尺度(度量衡)が不ぞろいであったが、明治維新後は政府の定める厳密な尺度に統一されるようになった。そこで傳兵衞は明治6年(1873年)、測定器具の較正、及び較正済み器具の販売を手がけた。傳兵衞の、時代の流れを見抜く先見性と商才を示す例である。
そのほかの事業を挙げておこう。傳兵衞が海運に乗り出した明治初期においては、和紙が重要な商品であった。唐津藩紙方役所と関係を持ったことは、初期の事業展開における重要な鍵であった。明治27年(1894年)、傳兵衞は唐津の舞鶴酒造を買収し、酒造りと販売を始めた。明治34年(1901年)に100石以上を生産したとの記録がある。これが後の宮島酒造株式会社となる。醤油の原料確保を念頭に置いて、塩の問屋を始めた。これが後の松浦塩販売株式会社となる。浅野総一郎との共同事業として、捕鯨にも取り組んだ。
(次号に続く)