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私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。) |
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会長コラムへようこそ。
大相撲は大阪で3月場所がはじまる。
もの心ついた頃には、双葉山に憧れ、郷土力士松浦潟の大ファンだった少年時代を送ったものにとって、大相撲の度重なる不祥事を憂いつつも、3月もまた、15日間の激戦、龍鵬対決が楽しみである。
しかし、玉錦、双葉山時代からの大相撲ファンとして、3月は今なお、心痛むことも思い出される。 |
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(一) |
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今を去る60余年。 |
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昭和20年3月10日。戦時下の日本では「陸軍記念日」、午前0時8分、少数の誘導機に導かれ、超低空で東京湾に侵入したB29、300機は、1,700tの高性能焼夷弾を搭載し、東京東部の下町、現在の江東区、墨田区、台東区を波状攻撃する。 |
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折からの、猛烈な北風にあおられ、火炎は大きな火流となって、路上を走り、家屋をつらぬき、、、未曾有の火焔地獄と化する。 |
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(「東京大空襲」 早乙女勝元 著 河出書房新社 ) |
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この東京大空襲は、国技館を襲う。 |
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当時、本社千歳町の棟割長屋の一軒に新婚間もない、松浦潟達也は、疎開もせずに住んでいた。 |
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長屋にも火が入り、消火をしていたが、危険となり、荷物を積んで、車を曳き、かみさんが後ろから押して・・・消息は、猛火の中に消えた。 |
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数日たって、消防団の一人が「そういえば、大きな仏さんがあったよ」と語ったという。 |
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松浦潟の最後はこう語り継がれている。 |
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(「東京大空襲と二関取」 石井代蔵 中外日報 昭和57年9月3日) |
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(「あるふんどしかつぎ一代記」 小島定二 著 ベースボールマガジン社) |
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(二) |
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私が、この「会長コラム」13回(平成16年7月)に、松浦潟を偲ぶ記を掲載したところ、このコラムが故松浦潟の姪にあたる方(弟さんの娘さん)の目にとまり、「父(松浦潟の弟)が非常に喜んでいました」とのお礼のメールを頂いた。 |
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それから、数ヵ月後、松浦潟の弟様、牧山春雄様から、貴重な数々の写真ブロマイドとともにご丁寧なお手紙を拝受した。 |
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その中で、兄夫婦のことについて、こう記されている。 |
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兄夫婦(松浦潟)は、故郷、唐津市鎮西町馬渡島のカトリックの墓地に神父さんにうかがって、遺品がなければ、写真でよいからと埋葬しました。 |
義姉(松浦潟夫人)は名古屋市中区時雨茶屋経営、長山マサの長女で「牧山冨美子」です。 |
松浦潟は、力士をやめたら時雨茶屋を経営するつもりだった様でした。 |
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もともと、相撲はあまり好きでなかったようです。(それでも、小結まで進んだのですから、努力したのでしょう。) |
親方の反対もあったようですが、神奈川県の「二の宮神社」で挙式。 |
新婚生活は「東京都世田谷区下馬町」新築の二階建を借りて船出しました。 |
国技館に通うのが遠いので、一年少しで両国に移り住んで間もなくの不幸なことでした。 |
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在りし日の勇姿 |
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3月9日という日も忘れられません。 |
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この日、松浦潟は、横浜の生糸会社の会長、三溪園の所有者原良三郎氏の家に招待され、帰りに井土ヶ谷の実姉の家に立ち寄っていたら、空襲警報がかかり、急いで帰ったようでした。姉夫婦は泊まって行く様に言ったようですが「冨美子一人残しているので・・・」と振り切って帰ったそうです。 |
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姉のほうでは、しばらくして東京の方を眺めたら、東京の空は真っ赤になっていたとのことでした。 |
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私が思うには、二人は一緒に逢ってはいないような気がします。どうか、兄夫婦のために冥福をお祈り下さい。 |
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弟、牧山春雄様のお手紙は、こう結んであった。 |
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このふたつの語られた事実。 |
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やはり、横浜のお姉さん夫婦の「冨美子一人残しているので・・・」と振り切って、愛妻のもとへはせ参じる、松浦潟に真実を感じる。 |
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東京空襲は3月10日の午前0時、それが松浦潟の耳に達するのは真夜中だったであろう。横浜から東京へは30km余り。いかにして、東京下町へたどり着いたのだろうか。 |
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哀切限りなく、心は痛む。 |
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牧山春雄様のお手紙の中には、続いて、 |
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「戦争も日増しに激しくなり、兄も2回召集を受け、その都度、久留米で身体検査を受けたようですが、2回とも『国技で頑張るよう』とのことで、入隊猶予になり、兵役免除になっていました」と。 |
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当時の日本の社会情勢の中で、国技相撲の伝統を守れという関係者の厚意に恵まれながら、大空襲の犠牲になるとは・・・。 |
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この事実を聞かれた、立田山親方の次女、清水尚子さん(俳人)は、こう書き綴っておられる。 |
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松浦潟さんはせめて、戦地へゆかず、つかのまでも、新婚時代を過せたことを幸せ・・・と思いたいです。 |
(空襲の最後のことは、これも、たとえはなれていても、心は同じ一つであったに違いありません) |
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合掌 |
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